きれいなものを、みつけに ー小豆島ガールー

小豆島で輝く女性の「きれいなもの」がいっぱい!

瀬戸内国際芸術祭

醤油蔵のバトン


山吉醤油の母屋に入る度に、汗をかいて素麺をすする高校生の私が目に浮かぶ。
大きな窓から入る風が、広い部屋中に行き渡る何とも言えない気持ち良さ。
もう食べれないのに素麺がどんどん出てきて、おばあちゃんの話がラジオのように帰るまで続く。

毎回そんな私が重なりながら「小豆島・醤の郷+坂手港プロジェクト – 瀬戸内国際芸術祭2013」で旧醤油屋「山吉醤油」の母屋にgrafが展示した「小豆島カタチラボ」を見ています。自分勝手な観賞の仕方だなと思いながらも、基本的に観賞するという行為は見る人自身の背景が無意識に重なりながら感じるものだからいいかな。なんて。




実際にできた展示を見て、ホッとし、嬉しくなり、感謝しています。
手がけてくれたgrafさんの地元への姿勢は脱帽もの。他のアーティストさんも「ここまでは真似できない」と口にしています。

私、メンバーkellyの家はこの山吉醤油跡の傍にあるのですが、私すら聞いたこともない地元の集まりにもgrafさんはちゃんと参加しては地元の方の人々から話を伺い、地元の小さな場所やご近所さんの元へスタッフ1人1人が動いて動いて丁重に寄り添っては熱心に調べていました。

こうして展示されているのは小豆島で長い年月をかけて自然と生まれたカタチ。だけれども、grafさんのフィルターを通じたカタチは地元の人にとっては新鮮で、島外の人にとっては興味湧くカタチ。
島内外で高い評判を耳にしています。

この展示場所の背景を、この土地で生まれ育った私だからこそ伝えたいと思います。
もう途絶えたかと思った栄枯盛衰が再び動いているこの時に。
とっても個人的な話になるのですが、事実のお話です。

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(山吉醤油のおばあちゃんと一緒に絵画旅行に行った高校生の時の写真。隣に映っている方が誰か覚えてないけど、見た目からして生憎別の方。)
私は幼い頃から絵の世界に没頭していて、
高校時代は高松工芸高校の美術科に通い、10分間の休み時間すらもキャンバスに向かっていました。
そんな私に絵を描くのが大好きな山吉醤油のおばあちゃんが「うちで、一緒に絵を描こう」と言ってくれました。


(廃業後約5年後のアトリエ跡。この後看板も中身も消える。)
お言葉に甘えて土日や夏休みなどの長期休暇のほとんどを山吉で過ごし、
時に絵描き旅行におばあちゃんと行きました。
芸術大学に進学し、京都に住み出した頃、おばあちゃんが亡くなりました。
一緒に住んでいたおじいちゃんも追って直ぐに亡くなりました。

山吉醤油といえば、当時小豆島で最も歴史のある醤油蔵。
どっちの料理ショーなど、メディアでもよく取り上げられる人気の醤油蔵でした。
おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなった後は、跡継ぎがおらず廃業。

お葬式以降、再び山吉に訪ねたのが大学三回生の時。ヒョンなことから醤油の活動を始めた年です。
いろんな醤油蔵に訪ねた後、思い切って誰も住んでいない山吉にそっと入りました。
いつもラジオのように続くおばあちゃんの声はなく、
たった2年くらいしかたってないのに建物そのものも生命がない。同じ建物とは思えませんでした。
「1軒の醤油蔵が無くなる」ことを思い知りました。



(2006年1月26日撮影:がらんとした醤油蔵)
そして、私が大学三回生の時から綴っている醤油のブログにこう書いていました。
「2005年10月08日
『つい最近、山吉の諸味蔵を買ったよ。』と教えてくれた。山吉醤油の老夫婦が亡くなって、担い手がなくなってから正金醤油が諸味蔵を借りて諸味を育て続けてきた。それを正式に買ったそうだ。
私は山吉の諸味蔵を正金醤油が使ってくれるのがすごく嬉しい。単純に使わなければ蔵が死んでしまうからだ。一部だけでも使ってくれると蔵の生命はのびる。特に諸味蔵が蔵全体の大切な蔵なので嬉しい限りだ。実際に山吉醤油の諸味蔵を拝見させていただくと、生き生きと諸味たちが育っている。変に感謝してしまう。 』



(2006月9月12日撮影:先ほど人が立っていた場所に桶が置かれた。当時はまだ空の桶がほとんど)
圧搾機など不必要になった道具を取り除き、蔵全体に桶を増やして総整備。
ひんやりした印象だった蔵が、体温溢れる蔵に。体温で私の心がじわりじわりと温まり、涙がこぼれました。




そして、手つかずだった母屋も、椿昇さんプロデュースの元、「ロフトワーク」という会社の研修で使うことになり、

grafさんが入ることで甦っていきました。

素晴らしいのは、残すべきところは残って、進化すべきところが進化しているところ。
正金醤油さんは桶と建物は残して、それ以外の所に桶を置き、grafさんも母屋に釘一本いれず、空間だけを活かして展示してくれています。

2006年10月08日の私のブログでこう綴っていました。
「一部では、『古い蔵なんだし、つぶしてしまえばいい』という声もあったものです。
本当にどうなるんだろうと気になってしまっていました。

『旧山吉醤油蔵』を紹介した私の大学での友達は皆蔵の素晴らしさに驚き、主人がいないことに一緒に悲しみました。中には模型まで作って素晴らしい蔵の再生方法を考えだした友達もいるほどです。

直接的な跡継ぎはいなかった『山吉醤油』。
偉大であった故に、自然とたくさんの人たちが動きました。
人の中で生きる蔵。
生命のバトン。」

生命のバトンは、今もなお続いています。

kelly