きれいなものを、みつけに ー小豆島ガールー

小豆島で輝く女性の「きれいなもの」がいっぱい!

小豆島art

粟島のアートと島時間


小豆島の方々と船に乗って『粟島』へ!
粟島のアートと島時間を体感しに行きました♪
通常はないこの特別な船が出ているのは
若手芸術家の創作活動を支援するとともに、地域の人々との交流を通じて文化芸術による地域の活性化を目的して行われているプログラムが小豆島と粟島で開催されていることがきっかけです。
小豆島では「小豆島AIRアートプロジェクト Story of the Island展」が行われ、粟島では「第二回粟島芸術家村滞在作家展」が行われました。
そこで両開催地の積み重なった協力体制と試みのもと、クルージングツアーが行われました。
これは助かります。

約2時間ほど海景色を楽しむと…着きました!初粟島。


「わー、ええなぁ!」「ほんまにー、ええやん!」
上陸して目の前に広がる島景色に心がときめきました。
そこに広がるのは国際色が日本様式に混じりあってできて粟島ならではの空気感と
景色から確かに感じる人の温かさ。
異国情緒が溢れているのに懐かしく感じるのはなぜなのだろう。


看板に書かれた文字のトーンも家の塀も庭の作りも。次々と広がる景色の一部一部にときめいて夢中で写真を撮っていると…すっかり皆とはぐれてしまいました。
いかん!急がねば!なんせ観賞時間たった1時間半!
バタバタバタバタ………。
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作品から感じたこと
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私が作品を通じて私が一番印象的だったのは、実は最後にたどり着いた旧粟島中学校を活かした『粟島芸術家村』での展示。
ここには島の人とアーティストさんの長期に渡った会話と試みが詰まっていました。
イタリア・ミラノ生まれのルカ ローマさんが完成するまでのいきさつを話してくれているのを少し横から伺いました。
住民の方々が協力してくれている時に度々完成形態について質問されたそうなのですが『島にあるもの』や『住民の考え』を取り入れながら作られていくため、最後まで完成形態は作家自身わからなかったそうです。
逆の言い方をすれば、『島にあるもの』や『住民の考え』そのものを形にしたと言えます。
作家自身は『自身ができること』をそっと添えて形にしただけ。
私が言うのは大変おこがましいのですが、今回の三都や粟島のような形式では、作品そのもの以上に住民がいかに刺激を受け、考え、何かしら次の行動に移るようになるか(“元気になる”でももちろんいい。)ということが大切だと考えています。
最後の展示からは“過程”の欠片を詰まっていて、溢れ出す住民の方との会話や熱気が印象に残りました。
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国立粟島海員学校
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歩いていると突然現れたなんとも立派な建物!
ここは『国立粟島海員学校跡』
しまレポ』によると明治30年に設立、昭和62年3月に廃校となった日本最古の海員学校として90年の間、海運を支えてきたそうです。
敷地内では貴重な歴史資料や船舶機器などが展示されていたり、アーティストによる作品が展示されていたり、「ル・ポール粟島」という宿泊施設もあります。





「これも本物ですか!?」と驚く貴重な物の数々。
ついつい盛り上がってしまいました。(ごめんなさい)

航海の歴史故に島にある欠片一つ一つに異国文化を感じます。
挨拶に来てくださった三豊市長さんの話によると、粟島は明治初期まで北前船が多く着いており、現在でも北前さんの家が住める状態で多く残っています。また、粟島の方々が国際的に大きく航路を行き来してきたことから、幕末から明治にかけては水先案内人として選ばれてたそうです。
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(おまけ)島風景から感じたこと
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さて、これからは私が惹かれてシャッターをきった島の欠片の数々を。
島の“当たり前”となっているひと欠片。
紹介する前にまずはモノサシとなる情報を。
粟島の人口は約320人。周囲はわずか16.5km。
ちなみに小豆島の人口が約32000人なので1/100です。
一番若い方で30歳を過ぎているそうです。※しかも既婚者(ここもチェックw)

商店「ビールとアイスクリームが一押しだよ」
手前の扉「じゃあビール」

『レンタル』であること2度押し

余白の美を追求する自動販売機

『海上タクシー』を名乗る軽トラ。海上すらも走りそう。

「あっつー」って汗をだらだら流しながら巡っていると…

おごってくれました!生き返る!

『マ』をうまく守っています。『レ』は惜しい。
時代の流れと共にこのドリンクは消えてしまったようです。

瀬戸内の島々で共通するやさしい島風景

粟島は昭和30年代初期まで粟島西浜で阿島山から良質の土が産出されたこともあって瓦製造が盛んでした。「粟島瓦」は硬く、積雪に強いため、中国地方の山間部での需要が高かったそうです。
(ブログ『竹炭作り』参照)

平成15年に粟島小学校は休校となりました。

平成18年度には粟島中学校も休校。
粟島から子どもがいなくなりました。

土壁むき出しの家も多くありました。

現在の収入源は年金と観光業だそうです。
「夏は海ほたるを観に来る方がいるけれど冬がね」と地元の方。
一言一言を小豆島のことと重ねてみると、いろいろ考えさせられます。

kelly